紀 淑雄(きの としお、1872年5月28日(明治5年4月22日) - 1936年(昭和11年)4月15日)は、日本の美術学者、美術評論家、早稲田大学講師・教授、本願寺文学寮講師、女子美術学校講師、日本美術学校校長。号は星峰星峯)。

来歴・人物

1872年5月28日(明治5年4月22日)、元津軽藩お抱えの能楽師(喜多流)である紀淑真の子として、東京市本所区(現・東京都墨田区)に生まれる。

東京専門学校普通科(1888年9月入学、1890年7年卒業)、東京専門学校文学科(1890年9月入学、1893年7月卒業)を経て、1893年(明治26年)9月から本願寺文学寮講師となり、国文学・英文学を担当する。1896年(明治29年)4月から早稲田尋常中学校教員、同年9月から東京専門学校講師となる。

1897年(明治30年)12月27日、帝国博物館より帝国美術歴史編纂掛を嘱託される。1899年(明治32年)6月10日、帝国博物館美術臨時監査係を嘱託される。

1900年(明治33年)3月から女子美術学校講師を嘱託され、日本美術史・美術汎論を担当する。同年から1907年(明治40年)まで美術雑誌『国華』の解説起草主任を嘱託される。

1901年(明治34年)4月16日、帝国博物館より帝国美術史草稿編纂委員を嘱託され、『稿本日本帝国美術略史』の執筆に当たる。

1902年(明治35年)5月に第1回絵画展覧会に招待されたことを契機として、日本画家団体「美術研精会」に参加する。1904年(明治37年)7月6日の臨時総会により主幹の座を退くこととなる。

1905年(明治38年)、山内多門、高野涼堂らと日本画家団体「国香会」を結成する。1906年(明治39年)6月24日、国香会女子部発会式を行う。

1906年(明治39年)9月、早稲田大学大学部文学科講師となり、美学・美術史を担当する。1911年(明治44年)、教授となる。

1917年(大正6年)4月、「美術研究所」を創立し、所長となる。1918年(大正7年)4月、「美術研究所」を「日本美術学校」と改称し、校長となる。

1936年(昭和11年)4月15日、淀橋区(現・東京都新宿区)の自邸に於いて逝去、享年63歳。墓所は千駄ヶ谷の瑞円寺。

1938年(昭和13年)4月29日、日本美術学校にて胸像除幕式が行われる。

著書

  • 『小山田与清』裳華書房〈偉人史叢 第18巻〉、1897年10月。NDLJP:781611。 
  • 『日本画の鑑賞』日本放送協会関東支部〈家庭大学講座テキスト(美術鑑賞 其3)〉、1930年4月。NDLJP:1121090。 

脚注

参考文献

  • 坂崎坦「紀先生を憶ふ」『早稲田学報』第495号、早稲田大学校友会、1936年5月10日、61-63頁。 
  • 沓沢耕介「紀淑雄の美術家養成活動」『早稲田大学會津八一記念博物館 研究紀要』第5号、早稲田大学會津八一記念博物館、2004年3月25日、57-70頁、NAID 40007325376。 
  • 西恭子「日本美術学校について ~公文書にみられる学校運営 : 大正7年から昭和16年~」『東洋大学人間科学総合研究所紀要』第14号、東洋大学人間科学総合研究所、2012年3月、147-158頁、NAID 40019259639。 

外部リンク

  • 『紀淑雄』 - コトバンク
  • 『紀 淑雄』 - コトバンク
  • 紀淑雄 - 東文研アーカイブデータベース
  • 早稲田人名データベース 紀淑雄

紀子さんが突如金沢に 金沢大学と附属病院に置いていった贈り物が物議・・・ YouTube

タイムテーブル RADIO wonderstorage

紀子さん 悠仁東大裏口入学に今でも抱く期待 暗躍する専門アドバイサーと東大教授の「意味深発言」 YouTube

【写真】秋篠宮家、立皇嗣の礼で高まる緊張 職員には強い重圧|NEWSポストセブン Part 2

都市的醫師:濱野彌四郎之足跡 稻場紀久雄著,鄧淑晶譯,鄧淑瑩譯 國家網路書店