半井 成近(なからい なりちか)は、江戸時代初期の医師。4代半井驢庵、法名は瑞寿。徳川幕府で奥医師の長である典薬頭を務めた。

生涯

半井驢庵家に生まれる。父の利親(瑞玄)は慶長8年(1603年)に25歳で没した。母は藤堂高虎の娘。

寛永元年(1624年)10月、江戸に召し出されて徳川家光に仕えた。この年、祖父の半井成信(3代驢庵、瑞桂)は通仙院を号し、剃髪した成近に驢庵の号を譲った。寛永5年(1628年)には家光の疱瘡や瘧疾に対して調薬を行った。寛永7年(1630年)には幕府からの執奏により、朝廷から素絹の着用を許された。

寛永8年(1631年)の年頭には奥医師の筆頭として拝謁した。寛永9年(1632年)10月27日、相模国高座郡で1000石の知行を与えられた。

寛永10年(1633年)5月21日には将軍の命により、小田原藩主稲葉正勝の病気を診察するために小田原に派遣される。寛永14年(1637年)、家光の病気の診察にあたる。同年、家蔵の『聖済総録』に欠本があったため、幕府所蔵本から写本を行って補うことを願い出、全200冊を整えた。

その後、家光の勘気を被り、一時期奥医師から外された。寛永15年(1638年)9月17日に赦免されて職務に復帰した。

成近は江戸来住後も隔年で京都に赴き、朝廷に奉仕した。寛永16年(1639年)3月11日、家光の命を受けて京都に派遣されて、「御咳気」を患った東福門院の治療にあたった。同年6月9日には、久志本常尹と交互に朝廷に勤仕するよう命じられた。

同年6月15日、祖父の遺領であった山城国愛宕郡内の500石も合わせ、合計1500石を知行した。しかし同年10月9日に京都で没した。

驢庵屋敷

江戸屋敷

寛永元年(1624年)に幕府に召し出された際、成近(驢庵)の屋敷は元吉原(中央区日本橋人形町付近)に設けられた。なお、驢庵の江戸屋敷は子の半井成忠(5代驢庵)の時代に明暦の大火で焼失し、小川町(千代田区神田小川町)・表猿楽町(千代田区神田猿楽町)に移転した。

相模国の下屋敷

知行地の相模国高座郡本郷村(恩馬本郷村とも。現在の神奈川県海老名市本郷)には下屋敷が設けられ、「驢庵屋敷」の名で伝えられた。付近には「驢庵坂」などの地名が残る。1936年に「驢庵半井瑞寿館阯之碑」が建碑されている。

同地には成近が植えたとされるハルニレの木が現存する(有馬のハルニレ)。

家族・親族

『寛政重修諸家譜』によれば、以下の子女がいる。

  • 長男:半井成忠(5代驢庵)
  • 二男:半井瑞春
  • 女子 - 清水瑞室(亀庵)の妻。のち清水亀庵家が断絶したため、半井家に帰る。
  • 三男:半井杏庵

母は藤堂高虎の娘、妻は横浜一庵(正勝)の娘。「半井家先祖書」によれば、横浜一庵の正室は藤堂高虎の養女であり、半井家・藤堂家・横浜家は重縁関係にある。成近の母(藤堂高虎の娘)は一庵が開基となった泉涌寺照善院に葬られた。

脚注

注釈

出典

参考文献

  • 石野瑛「京都大徳寺塔中真珠庵所蔵の半井家画像」『中外医事新報』第1241号、1937a。https://dl.ndl.go.jp/pid/1739763/1/4。 
  • 石野瑛「大医和気・半井家系の研究」『中外医事新報』第1247号、1937b。https://dl.ndl.go.jp/pid/1739769/1/4。 

半井さん うぶさんのとりあえずこんな感じ

画像・写真:半井、江村が最終候補:時事ドットコム

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